多くの視覚障害者が鍼灸やマッサージで生計を立てています。

これらの仕事には国家資格が必要になります。

専門学校などで3年間勉強して、国家試験に合格しなければいけません。
 

盲学校に入学するための条件は、視覚に障害のある者と高校卒業と同等の学力。

このときは大検を取っておいてよかったと心底思いました。

エラーばっかりの人生で、唯一のファインプレーだと自負しております。
 

しかし今からまた3年間も学校へ通うのか?

高校も卒業できなかったのに大丈夫かな?
 

そうはいっても、もうやるしかありません。

いまの僕はもう高校時代の僕じゃありませんから。
 

盲学校は資格を取るための勉強をする学校だから専門学校のようなものだと思っていました。

しかし入ってみてビックリ。
 

社会的な分類は「高校生」になるんです。

僕たちは「理療科」という科で専門的な勉強をするのですが、「普通科」の現役の高校生(16~18歳)たちと一緒に、同じ学校活動もしなければいけないんです。
 

こんな歳(当時22歳)になって、生徒会活動や遠足にも行かなければならないんです。

しかも僕のようにまだ目が見えていて、一度は社会を経験してから入学してくるのは貴重な存在で、先生たちからけっこう頼りにされます。
 

生徒会の役員なんか任されたりします。

工業高校中退なんですが生徒会役員なんかさせても大丈夫ですか?
 

この姿を高校の時の先生が見たら涙を流して喜ぶだろうなぁ・・・

いや、それは僕の勝手な思い込みで、ただ戦々恐々とするだろうか?
 

何はともあれ、使わなくなって久しい脳細胞をたたき起こしながら専門知識を必死になって頭に詰め込みました。

 

盲学校ライフ

盲学校に通う生徒は当然ながらみんな目が悪いのですが、遊ぶときは普通に遊びます。

カラオケにも行きますし、居酒屋だっていきます。

歳とってから、目が見えなくなった人もけっこう来ているもので。
 

クラスのみんなでよくカラオケに行きました。
 

京都の四条河原町という繁華街でよく遊んでいたのですが、みな交通手段は電車やバス。

遊んでいるとすぐに終電・終バスです。
 

帰るにはまだまだ早いけど、タクシーに乗って帰るお金はない。

となると始発まで歌っとこう、ということが多くなります。

朝までカラオケというのはしょっちゅうでした。いやー、若かった。

 

盲学校の同級生は7人という少人数。

その中に女性が一人だけいました。(視覚障害者は男性の方が多いのです)
 

彼女は僕より年が2つ上で、「弱視(矯正しても視力がでない)」でした。

名前はIさん。

Iさんは普通に一般の大学を卒業し、社会人も経験していました。
 

いつものように、クラスのみんなのとカラオケにいった時のことです。

Iさんは途中から、高校時代の同窓会のために抜けました。
 

残った僕らは当然のようにオールナイト。

Iさんも同窓会が終われば戻ってくるとのこと。
 

12時を過ぎた頃に戻ってきたIさんが、終電に乗り遅れたという友人を連れてきました。

赤いコートを着た、背が低くて可愛らしい女性でした。

京都の冬は寒いんですよ。しかもこの日は雪まで降っていて。

 

その女性の名前はNさん。

その日はみんなで一緒に朝までカラオケをして、朝焼けのなか牛丼を食べ始発電車で家路につきました。
 

この頃、Mと別れてから2年くらいが経っていた頃でした。

それまでずっと彼女はできませんでした。
 

女の子と知り合う機会はありました。

合コンも何回かいきました。
 

でも僕の事を話すと、女の子はドン引き。

今から思えば当然といえば当然ですよね。
 

その女の子たちも二十歳前後の若い子ばかり。

そんな年齢で目の病気の話しとか聞かされても、普通はどう対応していいか分からないですよね。
 

でもNさん。

彼女は違ったんです。
 

あの「カラオケからの牛丼屋」の日からひと月が経ったころに2人で食事に行くことになりました。

その席で、僕はいっぱい話しをしました。
 

病気のこと、発病してからのこと、この先の不安なこと・・・

でもNさんは引かなかったんです。
 

すごく真面目に話しを聞いてくれました。

そんなことが、素直に嬉しかったんです。
 

直感が働いたというのか、「この人!」と、確信めいたものを感じました。

会ったのはまだ2度目だったのですが、付き合って下さい。って言っちゃいました。
 

結果?

もちろんOKでしたよ。^^

 

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