(写真はイメージです)
 

こんな子供でした

昭和52年に京都市で生まれ。

家族は両親と弟2人、妹1人の6人家族。

その長男として25歳まで京都で過ごしました。


 

性格は真面目だけどそれなりにお調子者、でも「目を付けられたくない」という理由で目立ちたくはない。

大きな病気はしたことはありませんが、よく風邪をひいて学校を休むことは多かった。

こんな子供でした。
 

そんな僕の父親は『仏像彫刻』という少し変わった仕事をしています。

自分の作品としての仏像を作ったりもしますし、お寺などにある古い仏像を修理したりもしています。
 

そんなちょっと変わった父は、「馬鹿になる」という理由でテレビを見させてくれませんでした。

家にはテレビそのものが無かったんです。

だから学校では友達の話しについていけないことがしばしば。


 

テレビでもダメなのですから、当然ファミコンもダメ。

でも子供のころはファミコンが本当に憧れの機械でしたね。

特にドラゴンクエストの全盛期で、僕は買ってもらえなかったけど友達の家でどっぷりハマりました。
 

その頃の憧れの人は、ドラクエのシナリオライター堀井雄二やプログラマー中村光一。

将来はゲームを作る仕事がしたいと思っていました。

 

サッカー少年でした

テレビやゲームはダメでしたが、漫画は制限されていませんでした。

「キャプテン翼」がきっかけでサッカーを始めました。

途中、「スラムダンク」や「帯をギュッとね!」に影響されかけましたが高校までサッカーを続けました。ヘタでしたけどね。

丁度、高校1年生のときにJリーグが開幕したのですが、数年前にリーグ発足から20周年というニュースに複雑な気持ちになったものです。そら歳とるわな。
 

大きく変わった高校時代

高校は工業高校に進みました。

京都の工業高校というとラグビーで有名な伏見工業がありますが、伏工と違うほうです。
 

工業高校にした理由はパソコンを扱えるようになりたかったから。

「情報電子科」という科があったのです。

このころはまだ、ゲームを作る会社に入りたいと思っていたのですね。
 

ただ工業高校は、僕と同じような目的をもって進学してきたゲームオタクな感じの人たちもいますが、それ以上いわゆる不良な感じの人たちが多かったのです。

こんな両極端な人たちが共存する学校でした。
 

オタク側として期待に胸を膨らませて入学した僕でしたが、フタを開けてみるとその授業は面白いものではありませんでした。

当たり前といったら当たり前なのですが、授業は別にゲームプログラムを学ぶわけではなく、電子回路や半導体などのもっと機械の基礎的な部分の勉強が主でした。

勉強が期待していたものとは違ったために、僕の興味はゲームから離れていきサッカーだけになってしまいました。
 

オタクと不良の両極端な生徒構成において、サッカー部に所属する人たちというのはどちらかというと不良のほうが割合は多いわけです。

そして彼らは高校に入るまでの僕のことを知りません。

高校デビューの僕でも自然に受け入れられ、仲良くなっていきました。


 

いわゆる不良な遊びは刺激的で楽しいことばっかりでした。

バイクに乗ったり夜遊びをしたり、家にもあまり帰らなくなっていました。
 

そうやって遊ぶためにはお金が必要なってきますのでアルバイトも始めました。

そんなことをしていると授業はサボりがちになっていきました。

なんとかサッカーだけは続けていたのですが、それもあることがキッカケで退部することになりました。
 

サッカー部をやめてからの僕は本当よく遊びました。

その頃は学校のことや将来のことなんて何にも考えていませんでした。
 

授業にはほとんど出ることもなくアルバイトと遊びの毎日。

ついには出席日数が足りなくなり、留年することが決定しました。
 

そんなことになりながらも、当時は全く気にしていませんでした。

どうにかなる。という根拠のない絶対的な自信があったのです。

 

 

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